ブログに書くこととは、表現する快楽を知ることか?

 ブログを書くことを自己分析したことを書く人がいて、よく自己分析されてるなと思いながら読んではみたものの、なんというか、こうというか、つまりね、自己分析しても別になにかを得られるわけではないんだよなぁ。今、こうやって書いているのは、実は、その人に宛書すつつ、一番気にしているのは、クローラーさんであって、それ以上のことはないんだよな。クローラーさんに恋文を書いているようなもんだとしたら、まぁ、普通の人は興味もわかないと思うだろうが、ところがどっこい、言葉の魔力って偉大すぎて、ま、読む人は読むのだよね。結局は、読む人も言葉の魔力を追い求めているのだから。
 ある有名なクラシック音楽の指揮者がね、記憶が間違っていなければ、インタビューに答えて、ステージに上がって、客席を見渡したとき、一番気になった一人を見つけて、その人のためにひたすら指揮棒を振るって答えたらしいのね。ま、こういう、アーチストの話は多くて、結局、恋とアートは同じだといってしまえばいえるわけで、そういうことなんだけどね。画家なんかも、モデルを使うとき、結局モデルとの恋に落ちれば落ちるほどいい絵になるのであって、仕事でそっくり写真みたいに描くだけなら、別に写真を油絵風に印刷すればそれでいいだけの話なんだよなぁ。
 ブログだと、多くの人に読まれたいとか、多くの人に読まれていればプロとしてお金儲けもできるということで、その方法をあれこれ研究したり分析したりして、それを実行して試したりするお勉強さんタイプの人が多くだと思う。ただ、それだと、読まれなくなったり、お金が稼げなかったりしたら、もう、ブログに書くことはなくなってしまう。それでも、いいんだけど、表現する快楽ではないってことだよなぁ。
 表現する快楽の入り口は、恋する、特定の誰かに対して表現することなんだけど、その誰かでさえ、つきつめていくと、あるアーチストは神様に対してとか、なにか表現そのものが快楽であって、あとのことは何も気にならなくなる様は、天才であったり狂気だったりするよね。誰にも読まれなくても書き続けることができる作家とか。実際、画家だと、ゴッホだと、生きている間、なんのために絵を描いていたのかわからなくなる程、絵は誰からも相手にされず、ひたすら、情熱と苦悩の人生で、まわりの人間を巻き込んでいただけだしなぁ。
 まぁ、そういう天才ブロガーがいたとしても、クローラーさんは探しだすことはできないとは思うけど、もし探しだすとしたら、人工知能の検索に、もしかしたら奇跡が起こるかもしれないかなぁ。とにかく、入り口は、恋文です。